1891年アメリカ滞在中に撮影されたもの

知られざる巨人 南方熊楠 1867〜1941(慶応3年〜昭和16年)

1867年(慶応3)和歌山市橋丁の南方弥兵衛(のち弥右衛門に改名)(世界一統の創業者)の次男として生まれる
1883年(明治16)和歌山中学校(現桐蔭高校)卒業
1884年(明治17)東京大学予備門(現東京大学)入学
同期生に夏目漱石・正岡子規・山田美妙等がいる
1886年(明治19)東京大学予備門を中退、同年12月渡米(ミシガン州)
1892年(明治25)渡英、翌年天文学に関する論文を英国科学雑誌「ネーチュア」に寄せる
1895年(明治28)大英博物館の嘱託となり、東洋図書目録を編纂
この頃より中国革命の父といわれる孫文と親交を深める
前列左から常楠(世界一統2代目)・常太郎(世界一統3代目)を抱く孫文・後列左が熊楠
1900年(明治33)ロンドンより帰国、和歌山市内に居住
1902年(明治35)植物採取のため、那智・勝浦に移る
当時弟である常楠が経営する南方酒造(現在の世界一統)販売店勝浦支店に身をよせる
1904年(明治37)田辺市に移る
1906年(明治39)田村宗造四女松枝と結婚
1909年(明治42)のちにユネスコ世界遺産登録された熊野古道にまつわる政府の神社合祀反対運動により自然保護活動を行う
1917年(大正6)自宅の柿の木で粘菌新属を発見
1921年(大正10)粘菌新属を「ミナカテラ・ロンギフィラ」と命名される
1922年(大正11)南方植物研究所(採取した標本の整理や図録の刊行が目的)設立資金募集のため上京
発起人として、原敬・大隈重信(世界一統の名付け親)・徳川頼倫・幸田露伴等が名をつらねる
1929年(昭和4)昭和天皇の紀南行幸に際し田辺湾神島にて粘菌・海洋植物につき進講し、採取整理した粘菌の標本110種を献上
(昭和4年の昭和天皇進講という大役を終えた熊楠は妻松枝とともに記念撮影)
(昭和天皇が「雨にけぶる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」と詠まれました。民間人としてはじめて名前を詠まれました。)
1935年(昭和10)神島が国の史跡名勝天然記念物に指定される
(国の史跡名勝天然記念物の神島)
(1939年熊楠が採集した粘菌類の標本)
1941年(昭和16)「天井に紫の花が咲いている」という詩のような言葉を残し、永眠。
享年75歳。
(和歌山市橋丁にある南方熊楠生誕地碑)