紀州五十五万石と徳川吉宗
1619年徳川家康の十子頼宣が55万5千石の地領で和歌山城に入城し、以来第14代藩主茂承までおよそ250年にわたって、和歌山城が徳川・紀州藩の藩政の中心となりました。明治4年(1871)廃藩置県によって和歌山城は廃城となりましたが、昭和6年(1931)に史跡に指定され、昭和10年(1935)に国宝建造物に指定されました。しかし昭和20年の戦災により焼失してしましたが、和歌山のシンボルとして再建の機運が高まり、昭和33年に竣工され現在にいたります。つまり、紀州55万石とよくマスコミに取り上げられますが、本来は紀州55万5千石というのが正しいようです。
(徳川吉宗騎乗像)
(和歌山城)
次に徳川吉宗についてご説明しましょう。吉宗は貞享元年(1684)に徳川御三家の一つ紀州藩の2代藩主、徳川光貞の4男として生まれました。宝永2年(1705)、兄綱教・頼職が相次いで死去したため、吉宗が紀州徳川家第5代藩主となりました。彼は尊敬する曾祖父の徳川家康を見習い、自ら質素倹約に努めながら、新田開発や産業の振興を図り、危機的な状況であった藩政財政を立て直しました。
享保元年(1716)に第7代将軍・徳川家継がわずか8歳で亡くなり、徳川将軍家の血筋が途絶えた後を受け、御三家の中から家康に一番血統が近いという理由で、吉宗は御三家筆頭の尾張家を抑える形で第8代将軍に就任したと一般的には説明されています。(実際は館林藩主・松平清武というれっきとした秀忠の男系・直系子孫が存在していたが、館林藩領内は重税のため一揆が頻発していた上、本人もひとたび他家に養子に出た者であり高齢だったこともあり選考対象からはずれていた。)これからの活躍はマスコミにてずいぶん取り上げられてますので皆さんもご存知のことと思います。紀州藩主としての藩政の経験を活かし、悪化した幕府財政の建て直しの改革を図り、江戸三大改革の一つである享保の改革を行いました。
(第8代将軍徳川吉宗画像)
のちに吉宗が紀州藩主を継ぐまでの間暮らした伝法屋敷(拝領屋敷)に講釈所(後の藩校学習館)を設け、学問を奨励するとともに、各種の武道なども奨励して、文武の振興を図りながら、藩内の引き締めを行いました。その屋敷のあった和歌山市湊紺屋町1丁目に藩校跡の碑が建っています。実は今の世界一統の敷地にあるんです!世界一統は紀州藩・徳川吉宗ともゆかりのある蔵といえます。
(世界一統正門右側にある藩校跡の碑)
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